創業者 久保田 豊

誠意をもってことにあたれば必ず途(みち)は拓(ひら)ける。

日本工営の創業者、久保田豊は、偉大な土木技術者として日本および世界で高い評価を受けています。久保田豊のスケールの大きさと社会への影響力は、技術者としての域を超え、それまで日本では重要視されていなかった「コンサルティング・エンジニア」という地位を確立させたことでもわかります。

久保田豊の生涯と功績をご紹介します。

1. 水力発電を夢見た少年は、世界が認めるコンサルティング・エンジニアになった

1890年、久保田豊は熊本県の阿蘇山の麓で生まれました。やがて、少年は生まれて初めて電気燈にふれ、水の力で起こる電気の不思議さに惹かれ、滝を眺めては水力発電を夢見るようになります。
久保田豊はのちに語っています。
「明治中期の私の少年時代は文化に遠かった。それらが子供心にいつの間にかよりよい環境をつくらねばならぬという心がまえを植え付けたかも知れない」
水力発電の夢は、終生変わることはなく、彼の人生のエポックにおいて常に呼び覚まされるものでした。そしてその夢の先には、常に何十万、何百万人といる国民が生き生き暮らせる社会がありました。久保田豊はその実現のために、1986年96歳で閉じるまでの人生をささげるのです。

2. 戦前から数多くの海外プロジェクトに参画

1930~1945年、久保田豊は鴨緑江流域開発(赴戦江ダム、長津江ダム、水豊ダム)に携わります。このプロジェクトは、当時世界最大(70万kW)のダム発電であり、ダム発電以外の肥料・アルミ・化学繊維の事業化の推進や、鉄道など公共インフラ整備にも尽力しました。鉄道事業は現在でも運転が続けられ、朝鮮人民共和国の基幹インフラとされており、水豊ダムは同国の国章のシンボルとして描かれています。さらに仕事の地域は、海南島、インドシナにおよび、マレーシア、スマトラ、ジャワなど広がっていきました。鴨緑江開発以降、資金作りにも携わった久保田豊は、「現在のコンサルタント業はあの時の体験を土台としている」と述べています。

1936年当時のポートレート
水豊ダム

3. 終戦。3,000人の職を確保すべく56歳で会社設立へ

1945年、終戦。久保田豊は、その仲間、部下、技術者たちとともに着の身着のまま日本の本土に引き上げてきました。
「引揚者援護会の気持ちと、せっかくでき上がっているチームワークを捨ててはいけない」と考えた久保田豊は、焦土と化した日本の再建を決意します。そして56歳で、3,000人の職探しのために社団法人と、株式会社(現在の日本工営株式会社)を設立。大陸からの引揚者の働き口を提供しました。

設立当時の本社ビル
創業後、海外事業展開を見据えて世界一周へ旅立つ久保田

4. 国際人として90歳まで世界で活躍。滞空5,000時間は地球100周分に相当

久保田豊は、生涯にわたり海外を中心に水力発電を主とした開発事業を指揮・監督しました。同時に、コンサルタントとして途上国の開発事業の指揮をとり、その国と地域の現在にも続く発展に貢献します。
久保田豊は単なる「電源を作る技術者」にとどまらない、その国の経済発展も見据えた事業を計画する「開発者・事業家」でもあったのです。
久保田豊が携わったプロジェクトは、現在の円借款による事業スキームや、日本のODAによる援助事業のスキームの先駆けとなる画期的なものでした。

ビルマ国(当時)バルーチャン発電事業

ビルマの全国的な電力基盤の中心となるプロジェクトで、現在でもミャンマー全国の発電量のうち約1割を占める重要な電源となっています。
久保田豊は、プロジェクト全体の指揮・監督だけでなく、ファイナンスの手当、ビルマ・日本両国政府との交渉までを一手に引き受けました。これにより、コンサルタントの役割を国内外に強く印象付け、その後のODAの先駆的モデルとなりました。

南ベトナム国(当時)ダニム総合開発事業

プロジェクトスタート時、すでに調査・計画をフランスが先行する中、久保田豊は独自の発電計画を提案。当時のベトナム政府は、日仏両国から提案の可否の判断を国連にゆだね、久保田豊の提案した計画が採用されます。以降、日本工営がコンサルティング業務を担い、完成したダニム発電所は、現在でも年間稼働率75%を誇っています。

ラオス国ナムグム多目的開発事業

国連による「メコン委員会」から委嘱を受け、久保田豊が実施した調査報告書に基づく開発事業です。日本工営がコンサルタント業務を担い、久保田豊の指導のもと、メコン流域最大の70億トンにおよぶ大貯水池が実現しました。現在も、ダムの余剰電力をタイへ売電しており、ラオスの重要な外貨獲得源になっています。

インドネシア国ブランタス河総合開発

日本のODAによる代表的な援助事業として、今日再評価されているプロジェクトです。
60年ほど前、久保田豊は「第一次流域総合マスタープラン」として、治山、治水、利水によって自然災害を防ぎ、もともと肥沃な土壌の周辺一帯を大穀倉地帯に一変させる構想を打ち出しました。その後、このプロジェクトは日本の円借款事業となり、第二次、第三次マスタープランが策定されます。プロジェクトの進行とともに、あらゆるレベルで技術移転と人財育成がなされ、キャパシティ・ディベロプメントの成功事例となりました。

アサハン多目的総合開発事業

インドネシア独立後、最大規模の工事で1万5,000人以上の言葉も習慣も違う日本人とインドネシア技術者が、一致協力して完成させた記念碑的な事業です。この事業の実現後、電力、港湾、道路等産業基盤の建設や学校、病院等の社会的基盤の整備を通じ、アルミニウム関連事業のみならず、北スマトラ地域全般の経済、社会的発展が達成されました。
これは、近年日本で取組みが始まった、社会インフラ整備に関わる官民連携のパートナーシップ(PPP)の原型です。

5. 日本における「コンサルティング・エンジニア(建設コンサルタント)」の地位を確立

日本のコンサルタント業界の発展は、久保田豊抜きには語れません。
久保田豊は、生涯にわたって社会の発展には産業の育成が不可欠であり、そのためには安定的で安価な水力発電が効果的であると考えていました。それを核として洪水を防御し、農業開発を進め、国土の基盤を確立するのです。
ここで不可欠なのが、事前の調査、評価、提案ができるコンサルタントの存在です。
そこで久保田豊は、日本国内でのコンサルタント企業の地位の確立を、日本工営、諸団体を通じて世に訴えました。やがて、久保田豊が関わった事業の成功に影響を受け、日本のコンサルタント企業が海外に積極的に進出するようになります。
1964年には、コンサルタントの海外活動の振興のための海外コンサルティング企業協会が発足しました。初代会長はもちろん、時代と業界の先駆者、久保田豊でした。

「コンサルタントこそはやりがいのある仕事である。いわば人間のみが持っている創造する力、それを体現するのがコンサルタントなのである。コンサルタントの道は厳しく、険しい」

6. 公益信託久保田豊基金を設立、開発途上国の若手人財を育成

1984年、久保田豊は自らの私財を投じて「公益信託久保田豊基金」を設立します。かねてより、途上国の持続的な発展のためには若い世代の教育が欠かせないと考えた結果の設立でした。

「夢のない事業は魅力がなく、sustainableな事業とはならない。特に、次世代を担う若者や子供たちに夢や希望を与えなければならない。夢を与える立場の支援者が、夢を持てなかったらどうなるのか。共通の夢を持って挑戦しなければならない。」

現在まで30カ国以上、延べ約300人の志ある技術者に助成金を給付しています。毎年、同基金のセレモニーでは受給者から、日本での研究および勉強を継続できるとして感謝の言葉や、帰国後は国の発展のために尽くすと誓いの言葉が述べられ、久保田豊の遺志が受け継がれています。

久保田豊基金 発足記念パーティ

7 .1985年 勲一等旭日大綬章を受章、海外の顕彰を授与

1985年、久保田豊はこれまでのさまざまな功績を認められ、勲一等旭日大綬章を受章します。
また、日本国内だけではなく、久保田豊が手掛けた海外開発事業は、現在その国の発展に貢献し重要なインフラ基盤となり、伝えた技術は人々の生活を支えています。その功績により、感謝とともに海外から多くの顕彰を授与しています。

主な顕彰

1958年 カンボジア王国功労勲章
1962年 ビルマ共和国鉱工業労働大臣賞
1964年 ベトナム共和国金馨勲章
1965年 ラオス王国勲二等百万象勲章
1971年 ラオス王国統治徽章銀賞
1973年 ベトナム共和国勲一等公共事業運輸通信勲章
勲一等旭日大綬章を受章
カンボジア王国功労勲章(1958年)
ベトナム共和国勲一等公共事業運輸通信勲章(1973年)
ベトナム共和国より(南ベトナム)

8. 2013年 国際コンサルティング・エンジニア連盟(FIDIC)100周年記念大会で大賞を受賞

2013年、国際コンサルティング・エンジニア連盟(FIDIC)の設立100周年を記念した大会で、この100年間に世界で建設されたインフラ施設や活躍した技術者として、久保田豊に「FIDIC Centenary Awards FIDIC100周年記念賞」が授与されました。
国際コンサルティング・エンジニア連盟(FIDIC)は1913年に設立された、世界94カ国のコンサルティング・エンジニア協会が加盟する団体です。個人での大賞受賞は英国ARUP社創業者の故アラップ氏と久保田豊だけでした。
生涯を通じて日本国内のみならず、海外でも電源開発・農業水利のコンサルタントとして活躍し、日本の技術輸出の新しい分野を開拓したことが評価され受賞となりました。

9. 誠意をもってことにあたれば必ず途(みち)は拓(ひら)ける

久保田豊が残した精神、それは「日本という一つの国にとらわれることなく、広く国際社会のために技術をもって貢献する」という情熱でした。その計画を成就させる目的のために全身全霊を集中させること、それが久保田豊の「誠意」でした。久保田豊はこんな言葉を残しています。

「誠意は売りものではないが、必ずにじみ出るものである。誠意をもってことにあたれば必ず途(みち)は拓(ひら)ける。」

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