プロジェクト挑戦記歴代仙台支店長が語る東日本大震災復興事業
~あれから10年、これから10年~

2011年3月11日、14時46分――。
宮城県牡鹿半島から130km離れた海底で、マグニチュード9.0の巨大地震が発生。すさまじい津波が東北を中心とした日本列島を襲いました。

未曾有の巨大地震が、港湾、住宅、道路、そして発電所にいたるまで、たくさんのかけがえのない命とともに、数多のインフラを破壊した「東日本大震災」。

日本工営は、地震発生直後から、復興作業の中心にいました。
震災発生から10年を迎えたいま、その最前線にいた歴代の仙台支店長4名が集結。これまでの10年を振り返りながら、これからの日本工営が防災、減災にどう向き合っていくべきか。
過去と現在、そして未来と希望を語りました。

歴代の仙台支店長。左から歴代順に、田倉治尚さん(現在はOB)、新屋浩明専務執行役員、長崎 均執行役員、松永忠久仙台支店長。

ビルはねじれ、壁がはがれた、10年前のあのとき。

――10年前の震災当日、みなさん何をされていましたか。
当時、仙台支店長だった田倉さんから伺えますか?

田倉

仙台支店の支店長室にいました。ビルがねじれ、外壁が剥落するほどの揺れに動揺しました。ただ初動は早かった。まず社員の「安否確認」を行い、16時には東京の本社からの出張者含めてほぼ全員と連絡がとれ、胸をなでおろしました。

新屋

私はその時東京の本社3階にいました。当時は国土保全事業部の事業部長で、定例の委員会の最中でした。「そろそろ終了だな」と思った途端、グラっときました。ビシッ、ビシッという音ともにコンクリートの横梁にクラックが入るのを見て恐怖を覚えました。

松永

私も本社勤務で、そのときは打ち合わせで八王子に。タクシーが揺れるので「すごいブレーキの踏み方しますね」と運転手さんに声をかけて顔をあげたら、路面が波を打っていました。

長崎

私は副支店長として、大阪支店にいました。大阪も揺れはすごかった。ですが、東北や東京と違い、インフラには影響がなかった。だから翌日、すぐ本社から「米・360kg/水700リットル/乾電池500個…」と買い出しリストが届いたのですが、あまりの量の多さに驚き、リストが間違いかと思いました。これを大阪支店ですぐに揃えて、新潟支店に送り出しました。

――物資は新潟経由で仙台へ?

長崎

太平洋側は津波で道路も鉄道も使えない状態でしたからね。日本海側の新潟支店からワンボックスカーで会津を抜けて、仙台に入るルートで送るよう指示が出ました。

田倉

全国の各支店から新潟経由で届いたものには本当に助けられました。また仙台支店は県庁の近くの中心街にあるため、停電なども早期に復旧。3日後の月曜日から業務再開を果たせました。

――そこから復旧、復興へ踏み出されたわけですね。

田倉

はい。競合コンサルでも、震災直後に東北での事業を継続できない会社や東北から撤退した会社も数社ありました。事故のあった福島第一原子力発電所から100km圏内なのも理由のひとつ。「日本工営はどうする?」という議論も正直ありましたが、玉野総合コンサルタント、日本シビックコンサルタントなどのグループ会社も含め、すぐに復旧へと動き出しました。

創業者の久保田豊が、戦後の荒廃した国土復興のために起こしたのが日本工営のルーツですから。そうじゃなくとも、ずっと震災の復旧・復興に関して積み上げてきた知見とノウハウが我々にはありましたからね。

――積み上げた知見とは?

田倉

私が仙台支店長として赴任したのが2008年4月。その2ヶ月後に岩手・宮城内陸地震がありました。内陸部だったため土砂災害が多く、栗駒山での地すべり、土砂崩れなどの被害には迅速な対応をして、国から高い評価を得ていました。

だから3.11のときも迷いなく動けた。初動から何をすべきか分かっていたし、日頃から心の準備をしていました。

あとは、それ以前からの「信頼関係」が大きかったですね。

――信頼関係?

田倉

国土交通省などの取引先との信頼関係のことです。岩手・宮城内陸地震のとき、国土交通省のテック・フォース(緊急災害対策派遣隊)が北陸地方整備局から派遣されて東北に入ってきたんですが、彼らはその前の中越地震(2004年)のときから、日本工営と関りがあり、新屋さんをはじめとする日本工営社員の仕事ぶりを知っていたんです。

新屋

中越地震のときは私を含め全国から災害対応の人材が集まりました。このときの対応は国土交通省をはじめ関係各機関の方々に高く評価していただきました。

田倉

「日本工営なら安心だ」と岩手・宮城でも信用してもらえました。もっといえば、それ以前の阪神・淡路大震災から日本工営はずっと復旧・復興を手掛け、ノウハウとともに信頼を積み重ねてきた自負があります。

新屋

そのため岩手・宮城内陸地震のときはグループの精鋭、いわゆる“エース社員”が仙台に集められたんです。幸い土砂災害関係は弊社の得意領域で、全国に優れた人材が、当時でも100名以上、今では約200名いますからね。

口説き文句は「3日だけ」

――ただ、東日本大震災はそれまでにない未曾有の規模でした。
それぞれの現場がある中、東北に向かわせるのもご苦労があったのでは?

長崎

これも積み重ねた経験で、災害はいつどこで起きるかわからない。日本工営は各支店同士で「何かあったらそちらへ行く」「次にあったら向かう」と支え合う意識がまず強いんです。

新屋

被災地の応援のためには、人員のやりくりも重要です。お客さんに担当者を災害支援に出すことを納得していただくにもコツがあって、「人員を被災地に送り出したい!」と単純に伝えても、すぐには頷いてもらえません。そこで「3日間だけでいいので人員を割かせてください」と短いスパンでお願いをする。そのほうが見通しもつくから気持ちよく送り出させてくれます。

被災地で最初に行う重要な仕事は、短期間で被害状況を把握して復旧計画と予算を割り出す「災害査定目論見書」の作成支援です。だから、この初動時に一気に人員を割く必要があるわけです。

――ただ被災地が広範囲で、配分が難しかったと思います。

新屋

ええ。だからこそスピーディに対応しました。翌日の朝には本社に対策本部ができ、まず関東の各県から支援要請がくると判断しました。内陸部の土砂災害もあった。すべて受注したら、東北に人が割けないとわかっていたので、先に東北へ行くチームと関東で復旧にあたるチームとに分け、まず関東各県の自治体に声をかけました。

――沿岸部で大きな被害を受けた東北にまず人を割く必要があった。
そのために先手を打って、相対的に被害が少なかった関東の人員配置を決定したのですね。

新屋

そのとおりです。たとえば関東の自治体には、「東北から至急の応援要請が来ており、東北の支援に人員をまわします。災害関連調査などを日本工営にご依頼いただくのでしたら、本日中に判断していただけますか?」といった形で、自治体側に要支援規模の判断を仰ぎました。

――通常なら「入札で」となるところを、その場で判断を迫った。

新屋

ええ。実際、2時間を待たず「助けて欲しい」と随意契約で多くの仕事を受注しました。そのため関東に残す人員と、東北にまわす人員を機動的に素早く分けられました。

田倉

この結果、津波によって流出した橋の再建や、道路を分断していた様々な障害の除去などに素早く着手することができました。
そこからでしたね。現状回復を目指す「復旧」がはじまり、その先によりよい生活を生み出す「復興」を目指す道のりがスタートしました。

「PPP」「CM」、そして「除染」。
復旧から復興へ

――皆さんは歴代の仙台支店長です。復旧、復興の10年間では、
それぞれどのフェーズで支店長を担当されたのでしょうか?

新屋

震災直後の復旧から復興へと足を進めたのが田倉さんと、2013年~2015年まで支店長だった私の頃です。「復興のピーク」を迎えたのが、その後の2016~2018年に支店長だった長崎さん。

長崎

支店長だった当時、建設コンサルタンツ協会東北支部の総務部会長として、節目の意味をこめて『TOHOKU 復興から創生そして近未来への提言』という提言書を一冊にまとめました。

新屋

そして今、復興の仕上げを松永さんがやってくれています。

――4人の支店長がずっと関わられてきた代表的な事業として「三陸沿岸道路の事業促進PPP」「岩手県大槌町における管理CM」、そして原発事故による放射線の「除染事業」があります。

田倉

はい。まず三陸沿岸道路は、仙台市から青森県八戸市までをつなぐ全長359kmの自動車専用道路です。これを民間事業者が様々な調整や事業監理を行い、国や自治体と協力して行うプロジェクト手法「PPP(Public Private Partonership」)」で進められました。

新屋

東北地域の人の移動、そして経済を活性化させる大事な動脈づくり。本来ならば15年以上かかる大事業でした。さらに津波で被害があった地域の整備も加わり、大変な仕事量に。行政出身者の方に管理技術者に立っていただき、立ち上げ期からずっとサポートいただきました。

松永

そして10年目の今年(2021年)3月、359kmがほぼ全線開通しました。先日、当社が対応している三陸沿岸道路事業促進PPP・洋野工区の、侍浜ICから洋野種市ICまでの区間が開通したので、仙台から八戸まで車で北上しました。仙台から釜石まで、これまで4時間近くかかったのが、2時間30分で着きましたよ。

田倉

近くなったなあ。

松永

八戸までの道のりには魚の加工工場が並びます。漁港からの搬送もうんと短縮できる。経済状況が変わると感じています。

――「大槌町の管理CM」プロジェクトはどんな事業でしたか。

長崎

大槌は釜石の北に接するリアス式海岸を望む町。それだけに津波の被害が甚大だったんですね。家屋の約6割が全壊・半壊しました。
問題は地震直後、町役場内につくった地震災害本部が、全部津波で被害を受けたこと。町長以下、役場職員の半分近くが犠牲になりましたからね。

田倉

我々コンサルが、受注者の代行者となるCM(Construction Management)方式を採用せざるを得ない状況だったわけです。役所の代替機能を、民間の我々が果たさなければならなかった。

新屋

役場では幹部職員の方が多く亡くなっていたので、若い職員が指揮をとる組織になりました。これを我々が技術的にサポートをする。岩手県にお住まいの行政出身者の方にも入っていただき、最盛期は20人くらいのメンバーが現場事務所に常駐し、自治体職員の代理として働いていましたね。

――いつも以上に現場に入り込んだ、思い出深い復興事業だったのではないですか?

田倉

ええ。大槌に関わった人は必ず「復興後の姿を見たい、行きたい」と口を揃えますね。

松永

10年経った今は大槌の復興はほぼ終わり、土地区画整理事業にて宅地等も完全に整備されています。津波から守る防潮堤なども、もちろんできている。しかし、まだ空き地が多いですね。まだすべては戻っていない。

新屋

震災当時40代だった住民の方々も、今は50代ですからね。10年も離れると、マインド的にも戻るのは難しくなるのは理解できます。土地が整備されてハード面が復興されても、そこに住む人たちの豊かな生活が始まらなければ、いわばソフト面の復興がなければ、真の復興とはいえませんからね。10年はやはり長いですよ。

――そして「除染」作業も継続中。

田倉

三陸沿岸道路のPPP、また大槌のCMが評価されたことで、福島県のCMを受注し、除染作業も手掛けるようになりました。

長崎

今はいよいよ原発近くにまで迫ってきた。裏を返せば、そこまでは着実に進めてきたということですね。

松永

福島県の浜通りのCMはこれからです。まだ続きます。

被災の案件は「断らない」。
そのふんばりが、つながりになる。

――震災から10年が経ち、あらためて振り返って、実感した“日本工営の強み”とは何だと思いますか?

田倉

先述通り、災害対応をずっと積み重ねてきた知見があること。やはりそれに尽きますね。国や自治体から、災害が起こるとすぐにお話をいただくようになった。信頼を重ねた結果でもあり、大手コンサルの使命でもある。「日本工営ならできるでしょ。頼む、やってほしい」と来ていただきますからね。

新屋

これまで先輩たちの仕事ぶりを見ていても、「災害の依頼は断らない」のが当たり前になって、根付いていますよね。

仙台支店長に赴任したばかりの頃、課長クラスの社員の判断で災害案件を断っていたことがわかって、そのときは怒りましたね。「災害は断るな」「断るのであれば、まずは現地へ行って、被災地を見てから断れ」と。

長崎

まあ、でも被災地を見たら……断れないですよね(笑)。

新屋

たとえ本当に難しいときでも断らず、現地へいけば「ここまでならできます」と、できることに目を向けられますからね。

部分的でも限定的でもいいから、困っている方がいたら必ず誠意をもって力になる。それが日本工営の強みであり使命で、“らしさ”だと思いますね。創業者の久保田豊のマインドから続くDNA、久保田イズムです。

田倉

そうして断らず、厳しい復興の支援を苦労して成し遂げたときに「日本工営は信頼できる」となり、次の仕事につながる。

松永

一昨年、台風19号の凄まじい被害が、宮城県、福島県でありましたよね。あのとき福島県からの災害の支援依頼があり、すぐさま福島の浜通りにある県の建設事務所の事務所長に会いに行ったんです。そこで「まさか断りにきたんじゃないですよね」と言われ、もちろん、断らなかったのですが(笑)。その方は新屋さんが支店長だった頃に、次長だった方で、当時も日本工営とともに福島の復興に尽力されていました。

長崎

そうした信頼の積み重ねが、仕事と売上にもつながっている。仙台支店は、2010年から比べて、2019年には売上高が約3倍に増えていますからね。仙台エリアではナンバー1コンサルです。

新屋

災害は毎年のように起こっている。また、先端技術を使い、「被害を最小限に食い止める」ための取り組みも進んでいます。例えば衛星で撮影した画像やデータを解析し、防災・減災に繋げるなど、これまでの実績と知見があるからこそ高度化できる技術の開発も進んでいます。

近い将来、南海トラフ巨大地震などが高い確率で起こりうると言われていますが、いつでもどんなときでも、これまで備えた技術とノウハウで対応していきたいですよね。これからの10年も、100年も。

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