大河津可動堰 改築プロジェクト

新潟県 大河津可動堰

「大河津可動堰は土木史に名を残す土木遺産であり、土木の偉人が作った施設だ。生半可なものに作り替えないでほしい」。
担当者は、炭田にこう釘を刺した。

日本有数の穀倉地帯・越後平野、そして日本一の大河・信濃川。
古くから両者は緊密な関係を保ちつつも、その関係は時として大きく崩れた。洪水による氾濫だ。
洪水被害を回避するためには、信濃川の増水した水が越後平野に入る前に日本海へと流す必要がある。
多くの人々が江戸時代から請願を続け、幾多の洪水を経て1922年(大正11年)に完成したのが、人口河川・大河津分水路だ。
旧・大河津可動堰は1931年(昭和6年)に完成。以来70余年、越後平野の洪水氾濫防御・水利用に大きな役割を果たしてきた。

  • PROFILE

    炭田 英俊

    コンサルタント国内事業本部 流域・都市事業部
    流域・都市事業部 副事業部長
    1992年入社

    公私ともに尊敬してやまない直属の上司と文字通り二人三脚で河川グループを育て上げてきた炭田。多くの重要案件に関わってきた炭田だが、その彼をして「このプロジェクトは、土木人として大きな転機になった」と振り返る。プロジェクトスタート時、30代半ば。以来、10年の時を経て大河津可動堰は完成。炭田にとって「青春時代の総決算」となったプロジェクトだ。

  • 炭田 英俊
  • 01歴史的な遺産を改築する

    「炭田、これ取りたいよね」。直属の上司である松田は、炭田にこう声をかけた。後にプロジェクトリーダーとなる松田が炭田に持ちかけたのが、大河津可動堰改築プロジェクトのプロポーザル案件だ。「これを取るにはどうしたらいいだろう?」。当時の日本工営には、大規模堰の改築実績は多くはなかった。数社が参加した技術コンペでは、明らかに不利だった。越後平野と信濃川。その歴史を紐解く炭田は、大河津可動堰の改築が人々の暮らしにとっていかに重要であるか理解した。教科書にも紹介されるほど、古くから多くの人の願いが込められた「公共事業」であることに胸を熱くした。また、土木人としては「青山士」「宮本武之輔」といった土木の偉人が関わった案件であることも炭田の闘志に灯を点けた。

  • 歴史的な遺産を改築する
  • 02日本工営の総合力を結集

    1931年(昭和6年)に完成した旧・大河津可動堰は、70余年を経て施設の老朽化が深刻になっていた。堰基礎下部に連続した空洞が発生。堰柱・管理橋の劣化、架台・ゲートの腐食など改築工事は「待ったなし」の状態だった。「絶対にこの案件は自分がやってみたい。でもどうすればいいのか…」。コンペにおける不利な形勢を逆転する妙案を探し続けた。炭田はあらためてコンペに参加する他企業の強みと日本工営の違いを考えた。「総合力」。ふと頭をよぎったこのキーワードが、暗中模索の炭田に光をもたらした。土質・機械・電気・情報・環境・道路・橋梁…さまざまな専門家が日本工営にはいる。その総力を結集すれば勝てるはずだ。炭田はそう確信した。そして動いた。

  • 日本工営の総合力を結集
  • 03新たなるミッション

    総合力を全面に押し出したプロポーザルは高い評価を得た。狙い通り、発注者である国土交通省は、日本工営の総合力に賭けてくれたのだ。勝った喜びに紅潮するプロジェクトチームに発注者はこう切り出した。「土木史に残る遺産です。現代における最高の技術で改築してください」と。主担当、また河道計画・河川構造物設計を担う河川分野担当技術者である炭田は戦慄した。土木に必要な要件は、まず安全性だ。だからこそ実績が重視される。新しい技術を取り入れるとなれば、そのアイデアがいかに安全性を担保できるのか実証しなければならない。大規模堰では、ゲートが上下に開閉する引上式が一般的だ、信頼性も担保できる。だが、新しい技術ではない…。果てなく懊悩する日々が続いた。

  • 新たなるミッション
  • 04日本初の技術への執念

    突破口は、プロジェクトチームの一員である電力部門の大先輩社員からもたらされた。「海外ではラジアルゲートの堰がある。検討してみたら?」。ラジアルゲートとは、円弧型ゲートを中心軸で回転させることで開閉させる構造だ。これほど大規模な堰を採用した前例は日本には無い。プロジェクトチームはこれに賭けた。アイデアをまとめ、発注者にプレゼン。都度、疑問点が浮き彫りになる。学識経験者にも意見を聞いた。水理模型実験も行った。アイデアを得てから関係各位のOKが出るまで、実に2年を要した。大河津可動堰は、炭田とともに発注者、プロジェクトメンバー全ての思いを集約し、日本初のピン没水型長径間ラジアルゲートへと結実した。知っていることを売るのではなく、解決策を提供することこそが建設コンサルタントの使命。炭田はそう確信した。

  • 日本初の技術への執念