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「設計」・・・これからの世代に伝えたいこと 技師長 目黒 祥次

《実施地域》大阪湾周辺地域(大阪府・兵庫県の泉州・阪神地区及び淡路島)
《時期》1980年~1990年頃
《プロジェクト概要》
阪神高速道路湾岸線の高架橋や関空連絡橋(スカイゲートブリッジ)の設計
本州四国連絡橋明石・鳴門ルートのうち明石海峡大橋4Aアンカレイジ設計
1980年から1990年頃にかけての期間は、関西国際空港や阪神高速湾岸線、本州四国連絡橋3ルートの建設がはじまるなど、関西圏を中心に大型公共プロジェクトが次々と実現した時期にあたる。関西国際空港の開港にあわせて整備が進められた阪神高速湾岸線においては、埋め立て直後の若材齢地盤上に橋梁や高架橋を建設しなければならず、これらの設計においては軟弱地盤対応や埋立地の沈下対策などの面でさまざまな工夫が凝らされた。また、世界最大支間の吊り橋として知られる明石海峡大橋においては、メインケーブルを構成するワイヤーの総距離が約30万km(地球約7周半分)にもおよぶため、ケーブルの両端を固定するアンカレイジ(橋台)も従来のものよりも巨大なものにせざるを得ないなど、いずれの設計においても、設計者は制約条件の克服に頭を悩ませることとなった。

「人・物流の大動脈になった阪神高速湾岸線」
長年、高架橋や橋梁の設計に携わっていて思うのは、数をこなさないと分らないことがたくさんあるということです。「量は質につながる」というのでしょうか。すべてのお膳立てが整っている仕事ばかりではないですし、構造計算上いくら正しくてもパッと見たとき「なんかおかしい」という印象から隠れた問題が見つかることもあります。「問題に対処する力」や「直感力」というものは、やはり数をこなさないとなかなか得られるものではありません。

関西国際空港の開港に合わせて阪神高速湾岸線が整備されることになったとき、私は海岸沿いの埋め立て地をまたぐようにつくられる西宮浜、鳴尾浜、二色浜、助松ジャンクションや空港人工島と泉佐野市を結ぶ関空連絡橋(スカイゲートブリッジ)等の橋梁・高架橋の設計に関わりました。

一般的には充分な現場調査が終わってから設計を開始するのが順当な仕事の流れですが、このときは、関空の開港に間に合わせるため、まだ埋め立て途中あるいは直後の地盤を相手に、すぐに設計を始めなければならず、すべてが同時並行的に進んでいました。

埋立地ならではの地盤沈下や軟弱地盤対策を想定した設計を行いつつ、その都度新しい情報をもとに修正を加えながら精度を高めていくという、ある種の「離れ業」を経験したことが設計屋としての力になったように思います。

「明石海峡大橋を支えるアンカレイジ」
「明石海峡大橋を支えるアンカレイジ」
施工に関わる技術者に感じる敬意の念
これらの設計のあと大阪支店から広島支店に転勤となったのですが、大阪時代の思い出深いプロジェクトを挙げるなら、それは最後の頃に行った明石海峡大橋のアンカレイジ設計になるでしょう。

アンカレイジというのは吊り橋のメインケーブルに直結されるある種の「重し」のようなもの。橋の両端に設置される巨大な構造物です。世界最長の吊り橋ですからアンカレイジも相応の規模になりますし、新しい技術への対応も求められます。当初は設計手法ひとつとっても何を選択すべきか迷うこともありましたが、他部門の技術者や協業していたほかの会社の人たちの協力もあって、なんとか完成にこぎ着けることができました。

設計屋としての喜びは、やはり自分の仕事が形になるという点でしょうか。まだ子供が小さかったころ、完成したばかりの明石海峡大橋を一緒に見に行ったことがあったんですが、そのとき子供に「あれはお父さんが設計したんだ」とアンカレイジを指すと、子供は「お父さんが設計するのはいつも真ん中でなくて端っこの、目立たない処だね」なんて言われ、苦笑いしたこともありましたが。

そうした喜びを感じるとき、同時に施工に携わった技術者のみなさんに対して、敬意の念を覚えずにはいられません。自分で描いた図面が形になった喜びを感じられるのも、彼らの力なくしてはできないことですから。改めて実物を目にしたときこの思いを一層強く感じます。

「人・物流の大動脈になった阪神高速湾岸線」
「人・物流の大動脈になった阪神高速湾岸線」
これからの世代に伝えていきたいこと
1995年、いわゆる阪神淡路大震災が発生したとき、私が設計した橋梁・高架橋にも一部被害が出てしまったことを知ったとき、強いショックを覚えました。当然、構造計算上は当時の考え方としてはなんの問題もなかったですし、想定外の大地震だったとはいえ、いま振り返ると設計屋として「もう少し何とかなったんじゃないか」と感じないわけにはいきません。

最初に「量は質につながる」といいましたが、あの震災が私に多くの教訓を与えてくれたのも事実です。制約を乗り越えて安全な構造物を設計することの大切さを改めて痛感させられましたし、これ以降、設計する際の考え方にも一層の慎重さが加わるようになりました。

時折、これから日本工営を背負っていく技術者に「若いうちにたくさん仕事をしておけ」と言うことがあるのですが、たくさんの経験を積むことでしか「技術者として成長できない」思いがあるからです。長年仕事をしていても「反省することがない」ということは、言い換えればチャレンジしていないということになるのではないでしょうか。

これからも技師長としてプロジェクトに関わりながら、自分の経験をこれからの世代に伝えていきたい。そう思っています。
2011年3月 3日

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